今更だけれど

今更なんですが「それでもボクはやってない」の感想を。かなり前に見たので、ちょっと記憶があいまいだけれど。


見に行った動機は、自分がいわゆる「被害者」の立場であることが大きかったかな。「見に行きたい」ではなく「これは見なくては」という気持ちだった。「被害者」ならば「冤罪」ということについても知りたかった。


映画全体に関して、読み応えのある感想はいくらでもあるので、私のは本当に一部分の感想になるんだけれど。


この映画に出てくる「被害者」の女子高生に対して、皆、どのような感想を持つだろうかということを考えました。検索してみると「被害者の気持ちも分からないでもない」という感想に混じって、「被害者の女子高生にイラッときた」「(女子高生が)あることないことを喋り捲って」という感想もあった。


この「被害者」にとって裁判というのは、一体どういう意味があるんだろうかと思いました。刑事事件の被害者として証言するということは、どういうことなのかこの女子高生は知らされていたのだろうかということ。


『サバイバーズハンドブック』には、刑事裁判をする意義として

  • 加害者を処罰する
  • 加害者に警告する
  • 加害者に犯行を繰り返させない

の三つがあげられています。この三つ目の意義の部分から引用。


ただし、言うまでもないことですが、犯罪を減らす責任が被害者にあるのではありません。そもそも被害者の身辺の安全の確保、被害の再犯防止自体、警察が本来持つべき基本的機能の一つなのですから。告訴に踏み切るかどうかは、あなた自身が自由に決められることなのです。
サバイバーズ・ハンドブック―性暴力被害回復への手がかりP30より


この女子高生は、主人公の手をつかまえて「この人は痴漢です」と言った時点で、それは「私人による現行犯逮捕」になるということを知っていたんだろうか。映画の中では被害者があまり描かれていなかったので、想像でしかないけれど「あとは警察が何とかしてくれる」と思ったんじゃないだろうか。


そして女子高生が証言するシーン。「被害者」として証言台に立つというのは、どういうことなのか。その恐怖と緊張の中で「事実を証言しなければならない」というのは、どういうことなのか。自分の証言がどういう意味を持つのかということを知らされていたのだろうか。


もし私が「被害者」として証言台に立ったなら「事実」として自信を持って言えるのは、「私は痴漢の被害に遭いました」ということだけだと思う。人の記憶ほどあてにならないものはない。まして、思い出したくもないことを証言台で言わなくてはならない。恥辱と恐怖を感じながら、冷静に証言できる被害者が、どれだけいるだろうかと思う。女子高生にとっては必死の証言が、この映画では裏目に出てしまう。


主人公が有罪の判決を受けたとしても「被害者」の気持ちは晴れなかったのではないかと思う。自分の証言で誰かが有罪になる。控訴して逆転無罪となれば、いや、ならなかったとしても、あれだけの勇気を振り絞って証言台に立った女子高生の気持ちは行き所がないのではないかとも思う。


刑事裁判というのは、国家が犯罪の被疑者を処罰するかどうかを決定するための裁判なのだそうです。私には、どうしても(結果的に)被害者である女子高生までもが利用されたように思えて仕方なかった。主人公を有罪にするために。それは言い過ぎだろうか。


参考リンク:Yahoo!ブックス−インタビュー−周防正行