スカイプ寝落ち語録(その2)
「つこたらだめか…。いいじゃないですか…。」
「きっと、いいものに、なるよ」
「おなかいっぱい♪」
「私はおなかいっぱいのところを、うーん…うーん…」
「いちごだったら、いちごで、パッケージがかわいい。で、つくるの…」
「腰がね…、なんか…」
「でもね、声を大きくすると、ピアノの音も大きくなるんだよっ」
「発表会の曲を…弾いていたの…」
「石とか」
私「なんかね、ここは考えが違うみたい」
相手「何の?」
私「あれ、今犬の話してた?」
「このように、あとを、追いかけているんですねえ」
私「悪行…ちょっと悪いことをしているときに…」
相手「悪いことをしているときに?」
私「おとうさん」
「で、時間がなかなか過ぎていかなかったの。材料をこねこねして…そういうことです…ね?」
「お世話係」について
上の記事を読んで、思い出したことをつらつらと。
私が小学生の頃は、同じクラスに特にお世話が必要な子はいなかったように思う。ただ、妹のクラスにはいた。そして「お世話」は妹一人にまかせられていたと思う。なぜ、そんなことが分かるかというと担任の先生からの連絡帳に「△△ちゃんをまかせられるのは○○ちゃん(妹)だけです」という言葉があったから。
妹は成績も態度も良い典型的な優等生だったと思う。妹がお世話係を負担に思っていたかどうかは分からない。不平を言うような子ではなかったから。何かあると言葉で訴えるのではなく、人の目につかないところで黙って泣いているような子だった。
私はお世話係にこそなったことはないけれど、高学年の頃に一年生の子を学校まで連れていく役回りになったことはある。そんなもん当たり前じゃないかと思われるかもしれないけれど、この子が半端じゃなく大変な子だった。家を出て五分もしないうちに「ママに会いたい、ママに会いたい」と必ず泣き出す。泣き出すと、もうその場から動かなくなってしまう。泣き方も半端じゃなかった。
私は「その子を学校に連れていかなければならない」という意識があったので、何とかなだめすかして、時には手を引っ張って引きずるようにして学校に連れていった。家から学校までは普通に歩いても30分くらいかかる。いつだったか、その子をなだめるのに、とても時間がかかり遅刻してしまったことがあった。クラスの皆が一斉に「遅刻だー」とはやし立てた。「遅刻じゃない!」と私は言って、机に突っ伏して大声で泣いた。
私が小学生の頃は加配の教員は存在しなかったので、一人の子に負担がかかることもあったのだと思う。子どもどうし助け合うことは大切だけれど、子どもだけでは解決できないことも多くある。そうしたときに、いわゆる「いい子」は訴えることさえ思いつかないことも多い。それが自分の役割であり義務だと感じでしまうから。けれど、加配の教員がいることで、そうした負担が多くかかっている子どもの存在に気付く機会は多くなるんじゃないかと思う。
語録
スカイプ中に寝てしまったときに、つぶやいていた(らしい)言葉たち。要するに寝言。
「ドコモの設計書」
「こうしたらキレイになるでしょ」
「って云ってたね。」「ね。雨の人だね。」
「さっきはね、勢いで飛んだの。」
「え?なんか複数の楽器って無理なの」
「世の中の予定分かった?この日は『応援』とか。野球の。それの邪魔になるかと思って」
「握力測定…」
「酔っ払いの言うことだからいいの」
「私はなんか不安だったな…全て。歌とか。」
私「どう思う?」
相手「何について?」
私「わかんない」
「良かったのかなあ。調子良いときでないと録音できないとか。」
「なんかすごいね。こう、思ってることを書けるの。」
「嫌じゃなければ。一覧表がぱーっと続く感じ。次の…」
診察
自分用メモ。気が向いたらまとめるかもしれない。
今日、主治医と話したこと
イライラの原因は何か
良くならないことに対する怒りのようなもの
無価値感
仕事をしていないこと
家族に迷惑をかけていること
どんな言葉でもマイナスに受け取ってしまう状態
どうすればよいか?
→人と接しない。でも、それは「ずっと」という訳にはいかない
こだわりを捨てるのは難しい
どのように今の自分を受け入れていくか
(精神)医療に対する不満のようなもの?
私が嫌いなもの(言葉)
・病前性格論
・自己責任
医療が目指しているのは?
病気と共に在るということ
「治す」ことだけを目的とするのではなく、その人が病気と共存していく
そのための「工夫」
現実策を考える
本読みさん
S嬢さんのところで紹介されていた「自閉症の社会学」を読んだ。私は感想文が苦手なので、それらしきものは書けない。でも面白かったです。どれくらい面白かったかというと、低め安定を保っていた気分が軽い躁状態になったような感じがするくらい面白かった。
「自閉症の社会学」の面白さは、やはり一方的な視点ではないところだと思う。私は以前、定型発達の人の言葉を「通訳」したことがあるのだけれど、その作業をしながら、文字に現れていない言葉を、どうやって自分は解釈しているのか不思議な気分になったことがある。
私にとっては「自閉症裁判」よりも面白かった。「自閉症裁判」は少し感情が入りすぎている印象がある。それが読みやすさにつながっているのだと思うのだけれど、ややおおげさな表現がたまに気になってしまった。これは私が小説が苦手だということと関係があるのかもしれない。
ちなみに「自閉症裁判」はアスペルガー当事者の知人には不評だった。読んでいる間、ずっと違和感があったのだそうだ。それが何なのかは分からない。彼女はアマゾンのレビューを読んで絶望的になったと言った。このことに関しては何度かやり取りを繰り返して、私なりに納得しているけれど、結論が出たわけではない。
なんて、いつもこんな小難しいやり取りをしているわけではなく、普段はピアノの話やくだらないことをメッセンジャーで話している。くだらないことというのは「今の気分は237」とか「私は319が好きだ」とか、そんな話。しかし、これが面白いのです。何が面白いのだか分からない人もいるだろうけれど。
でも、いいの。楽しんでますから。